伊達政宗は福島城の目と鼻の先である羽黒山(信夫山)の麓黒沼神社に本陣を置き、首級実検を行った(首級三百余、武頭五人、他馬上百騎討ち取り))(註2)。福島城城主本庄繁長は、野戦の不利を悟り、宮代で敗れた軍勢を撤収し、籠城策をとったが、一時は伊達軍の中に全軍で突入し、切り死にを遂げようと覚悟する状況に迄追い込まれた(御本陣ヘ突懸リ討死スベシト議定シ 註3)。
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一方福島城の防備は堅く、伊達軍にも死傷者が続出した。片倉景綱の部隊は福島の町曲輪まで押し詰めて多数の上杉兵を討ち取ったが、上杉側の反撃も厳しく、片倉家臣の物頭国分外記らが討死にした。砂金実常は数十騎を率いて羽黒山南麗に布陣し、福島町へ銃撃を加え、迎撃してきた上杉勢を福島城の中へ追い込んだ。砂金実常が銃撃の手を緩めると、上杉勢は福島城の西門から出て反撃してきたが、砂金の部隊に斬り立てられ、再び福島城の中へ逃げ入った。
この時、伊達政宗は羽黒山麗に本陣を構えていたが、片倉景綱を呼び、福島城中の様子を問うた。景綱は、既に町曲輪まで攻め込み、福島城を陥落させることは間近であるが、味方の手負いも多く、一端引き揚げるのが上策であると返答した。政宗は景綱の言を入れて福島城への攻撃を中止し、福島城へ釣瓶討ちに銃撃を加えた後、国見山へ帰陣した(註4)。
伊達軍が国見山へ移動中、上杉方梁川城の須田長義旗下車丹波等が、馬上百騎・小手六十三騎等を含む足軽百人ばかりを引き連れて梁川城から大隅川を渡り、藤田と桑折の間で伊達勢後尾の小荷駄隊を急襲した。彼らは小荷駄奉行の宮崎内蔵助や足軽・人足等多数を討取り、兵糧を奪って梁川城へ引き上げた(この際に須田の部隊は伊達家の「竹に雀」の定紋の帷幕を奪い、永く上杉家の誇りとしたと云うがこれは軍記の創作で、そもそも「竹に雀」は上杉家の紋である 註5・6)。
伊達政宗は、福島表から国見山へ帰陣した際、摺上河原に諸将を召集し、屋代景頼に対してその武功を讃え酒杯を与えた。政宗は桑折東下篭で梁川表を遠望した後、国見山へ着陣した。
註2:「敵兵悉ク福嶋ヘ逃入ノ後、公、羽黒山ノ麓、黒沼神社ノ邊ニ御本陣ヲ備エラレ、首級ヲ実検シ玉フ。濱尾漸齋御側ニ同候シ、披露ス」『伊達治家記録』)
註3:「今日本荘出羽、公押付ケ攻入玉フヘシ、御本陣へ突懸リ討死スヘシト議定シ、内冑ニ伽羅ヲ焼留メ、且ツ手廻リノ人数ニモ高名ノ心懸ヲ止テ、只鎗ノ柄ヲ短く切詰メ、眞丸ニ成テ突懸ルへシト下知シ、御人数ノ攻入ヲ待ツ處ニ、諸手ヨリツルヘ鉄砲ヲ懸ルヲ聞テ、扨ハ御人数ヲ引揚ラルト見エタリ、城中ヨリ打出ハ、附入ニ城ヲ乗取リ玉フヘキ手術ナルヘシ、必ス働キ出ル事ナカレト総人数ニ不知スト云フ」(『伊達治家記録』敵軍始末ノ義雑賀小平太壽悦説ニ據テ記ス)
註4:「公、御本陣羽黒山ノ麗へ、片倉備中(景綱)ヲ召寄セラレ、城中ノ様子ニ依テ、御人数ヲ引揚ラレヘキ哉ト仰セラル。既ニ町曲輪マテ乗崩ス間、強テ攻入ラハ、城ヲ落ト事、頃刻ナルヘシ、然レトモ、御人数多費ユヘシ。先ツ引揚ラレ、然ルヘシト言ス。因テ諸手ニ命セラレ、一同ニツヘ鐵砲ヲ放テ、総御人数ヲ引揚ケラル。」(『伊達治家記録』)
註5:「慶長六年伊達政宗出軍於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品、武誉尤抜等倫」(『梁川城代須田系譜』)
註6:「或説ニ、此時、公ノ御陣幕ヲ奪取ラルト云フ。又亘理右近殿定宗荷物ノ内ニ、竹ニ雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取ラルトモ云ヘリ。両説不決」(『伊達治家記録』)
6日夜、伊達の国見山本陣に、上杉景勝家臣藤田能登家士斉藤兵部が、伊達・信夫の百姓等4千人を伴い内通してきた他、直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠が伊達成実に協力を申し出てきた。 福島城への再攻撃が検討されたが、上杉軍による仙道・梁川筋からの挟撃の懸念を石川昭光が言上し、また梁川城への謀略工作が不調に終わったため、政宗は再征を断念した。翌7日伊達軍は国見山に津田景康の部隊を残して陣払いし、北目城へ帰城した。
9日、政宗は、桑折宗長、大条宗直等に以下の書状を与えた。
「今度之動、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ條條、 能候ト存候 十月九日 政宗」(慶長五年十月九日 桑折宗長、白石宗直、大条宗直宛政宗書状」
10月14日、政宗は今井宗薫に戦いの結果を報告すると共に、同19日徳川家康に対して11ヶ条の申し出を託した。この中で、政宗は徳川家の軍勢を会津へ駐屯させることを提言し、又山岡志摩を通して申入れていた宮城郡国分千代への新しい居城(仙台城)の築造許可の催促等を求めた。
「去六日より福島へ動仕、得大利申候、様躰先達具ニ條々申入候、最上へ人衆遣、又動、其外ニ人悉草臥申候へ共、内府様無御下向以前、何とそ仕度候 十月十四日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十四日 今井宗薫宛政宗書状」
「今井宗薫へ被遣候御覚書
内覚
一 虎菊丸(忠宗)禄之事
一 兵五郎(秀宗)事
一 大坂伏見屋敷之事 口上
一 佐スチ以来共御鹽味之事
一 岩城之事 口上
一 八月廿八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付而、直江人數催、フク嶋江参候事 口上
一 會津ニ御手前之衆置申度事
一 南部之事
一 上方ニテ廿萬石カ十五萬石ホトノカンニン分申請度事 口上
一 ここ元居城之事
一 貴老江千貫之知行可進候、乍去右之儀共調候ハゝ、如御望二千貫之所可進候事、口上 條條、
以上 十月十九日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十九日 今井宗薫宛政宗書状」
慶長5年10月24日、徳川家康は政宗に対して、この福島表における戦功を賞した。また10月15日の書状と24日の書状の中で、翌春上杉景勝を征伐する方針を伝えた。
「書状令被見候、仍此表之儀、國割申付、各國々へ指下候、可御心安候、會津之儀者、来春令出馬、可致成敗候、其内御無聊爾様、御分別専一候、雖然最上表有加勢、無異儀様被仰付尤候、委細山岡志摩守口上ニ申候條、令省略候、恐々謹言 十月十五日 大崎少将殿 家康」(十月十五日 政宗宛徳川家康書状)
「四日之御状到来、令被見候、仍最上相詰候敵、去朔日敗北之處、悉被討果之由候、又同八日之御状参着、至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聊爾様肝要候、此表之儀、仕置等彌丈夫申付候、可御心安候、猶宗薫、村越茂介 可申候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将殿 家康」(慶長五年十月二十四日 政宗宛徳川家康書状)
「度々尊書拝見、忝候、仍四日之御状、同八日御注進状、両通具披露申候、無比類御手柄、被入精之段祝着之旨、以直書被申候、猶以従我等式、懇可申入之旨候、来春者早速、景勝成敗可被申付候、其中御行無聊爾之様、御分別御尤之由候、此表手置彌丈夫ニ、被申付候、今国分 と被申付候、具従宗薫可被申候條、早々得御意候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将様 貴報 井伊兵部少輔直政」(慶長五年十月二十四日 政宗宛井伊直政書状)
関ヶ原直後、家康は伊達政宗とともに翌慶長6年早々に上杉家を武力征伐する予定でいた。政宗は、慶長5年11月に届いた家康からの書状を請け、慶長6年2月17日に「家臣等軍役ノ人数改メ」を命じて内々に出陣の準備をしていたが、上杉家が本多正信や結城秀康等を通じて降伏を願い出たため、結果的に上杉征伐は中止された。この間、伊達家と上杉家は大規模な軍事衝突こそ起こらなかったものの、国境付近での小競り合いと緊張関係は依然続いた。
慶長6年3月20日、上杉家の様子を探っていた政宗は伊達政景宛への書状で、家康との講和に傾いた上杉家が戦意を失い、籠城の用意のみで仙道口へ兵を出す状況にはない旨を知らせた(「会津ノ唱モ能々承候、籠城之用意迄ニ而、中々仙道口ナトヘ人衆可被出武體無之由申候、縦景勝被打出候共、サヨウノ時者、又當手ノ備、日之内ニモ其構可仕候條、不苦候」)。5月8日、政宗は、景勝領の置賜郡長井荘板屋へ侵入した石川義宗が、悉く焼打を行ったことを伏見の家康に注進した。
戦後
慶長6年7月、景勝と兼続は京都伏見に上洛し、8月に家康に謁見した。会津領は没収され、置賜郡(長井郡)と伊達郡、信夫郡の30万石に減封された。一方、政宗は和賀忠親の南部一揆への煽動関与の件により、念願だった先祖伝来の地の奪還は叶わず、戦後の論功行賞でも自力で占領した刈田郡2万石のみの加増に終わった。
古戦場の現在
松川と福島城
合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長の居城・福島城は福島県庁となっている。
梁川城
梁川城は江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は梁川小学校、梁川幼稚園、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗移封後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。
梁川中心市街(梁川城下)から国道349号線を1.5kmほど北上して阿武隈川を越えると、左手に、当時、梁川城に対峙して伊達軍が布陣したという小山…大枝城跡がある。梁川城も小高い平山城であり、梁川城と大枝城からは、阿武隈川を挟んで相互に相手方がよく見える。
国見
伊達軍が布陣した国見の厚樫山(あつかしやま)の山麓も国指定史跡に指定されているが、源頼朝の奥州藤原氏征伐の史跡としてであり、伊達政宗の福島侵攻の本陣が置かれたことはそれほど知られていない。厚樫山の山頂には、現在展望台があり、国見という地名のとおり、福島盆地…特に伊達郡の梁川、保原方面を一望することができる。